May 24, 2026 Fragments 散文

身体の重さと、情報の軽さ

by riito_s · 1 min read

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仕事に必要なのは、自分の意思と身体、そして数枚のクォーターとトークンだけ。そんなミニマルなしばりが、私がメッセンジャーの仕事が好きな理由だった。

クォーターは公衆電話をかけるための25セント硬貨。トークンは、ニューヨーク市の広大な路線網を距離に関わらず一度乗車できる専用コイン。当時、その価値は一枚75セントだったはずだ。

「出勤先」は、ミッドタウンのグランド・セントラル駅(通称グラセン)の薄暗い隅、壊れたベンチが寄せ集められた一角だった。そこは、アメリカの公共空間特有の、どこか張り詰めた静けさを纏う場所だ。トイレと公衆電話という生活インフラがあるがゆえに、ここは自然と、さまざまなメッセンジャーたちが待機する緩衝地帯のような場所となっていた。

同業者たちとは、実際に共に働くわけではない。しかし、この場所を拠点とする仲間として、一種の、静かな共同体意識があった。アフリカの聞いたことのない国から来た長身の男、国籍不明のアジア人の若い女性、スペイン語しか話せない中高年の人たち。私たちは、世の中のメインストリームから少し外れた、浮遊する場所にいたように思う。皆、まるでこの都市と世界を俯瞰するような、どこか達観した目線を持っていたのかもしれない。

それぞれの「始業時間」になると、公衆電話にクォーターを押し込み、所属する会社に連絡を入れる。担当者に名前を伝え、その日の最初の仕事を受注する。ピックアップ先は44丁目、デリバリー先は51丁目。指示された場所まで行き、書類や物品を受け取り、目的地まで運ぶ。移動は、距離に応じて徒歩か地下鉄だった。デリバリーを完了すると、再びオフィスに電話をかけ、業務完了と現在の居場所を報告する。次のオーダーがあるか確認し、なければグラセンに戻り、一定時間後に再度電話をかける。このサイクルを、勤務時間(概ね6時間)の終わりまで繰り返す。

当時、マンハッタンを走るロードバイクのメッセンジャーがドキュメンタリー映画で有名になっていた。私たちの徒歩と地下鉄での仕事はそれとは対照的に、地味で、しかし確かな重みを持っていた。私が所属していたのは日系のメッセンジャーサービス会社だったが、クライアントは必ずしも日系企業ではなかった。ニューヨークの多様な業種のレセプションデスクを巡る日々は、それ自体が刺激的だった。

報酬は、一件のデリバリーに対して5ドル。これには電話代と地下鉄トークンの代金が含まれていた。仕事が少ない日でも、スタンバイの報酬と電話代として10ドルが支払われた。

仕事がない時間帯はかなりあり、私はグラセンの汚れたベンチで、いつも同僚たちと無駄話をしていていた。西アフリカから来た若い男は、「アメリカよりアフリカの方がいい」と語り、違法滞在という、多くの人が抱えていた境界線の曖昧さを口にした。スペイン語しか話せないと思っていたおじさんが、長い時間の後に、それまでずっと英語で話しかけてくれていたことに気づいたこともあった。同僚たちの中には、日本人は少なかった。東海岸には学生が多くはなかったせいか、いたとしても、メッセンジャーのような単純労働のアルバイトを希望する者が少なかったからかもしれない。

これはインターネットもスマートフォンもなかった頃の話だ。その後、ニューヨークでは公衆電話は段階的に廃止され、地下鉄のトークンシステムはメトロカードに、そして電子決済へと移行していく。しかし、私は、ああいう、シンプルで、身体が主役の仕事をまたやってみたいと思う。

聞くところによると、今日、テラの1000倍であるペタ単位のデータを収めた記録媒体を手荷物で運ぶ仕事があるという。データボリュームが巨大すぎて、高速通信回線を経由しても送信に数週間から数ヶ月を要することがあり、しかもその過程は不安定で不確実なのだそうだ。しかし、人間が飛行機で運べば、地球のほぼどこでも、最長でも三日あれば配達できる。

自分がデータや情報の手足になるという感覚には疑問を感じる可能性はある。しかしその仕事は、はるか昔のニューヨークのメッセンジャー仕事と同じだ。移動や旅には、最終的には自分の意思と身体だけという、最も原始的で確実なものが不可欠だということを再確認させてくれるかもしれない。

あの頃、グラセンのベンチで交わしたどうでもいい会話。あれは、旅人たちが共有する豊かな営みの一つだったのではないか。もし未来に、大容量のHDDやSSDを運ぶ仕事で、彼ら・彼女らとどこかですれ違い、再び言葉を交わす機会があるなら、それは、移動を続ける者たちの時間と空間を超えた、小さな喜びになりそうだ。

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